sorairokisetsu


offline -同人活動-

Reality & Border

サンプル1

7月8日  [水曜日]

 日が長くなりつつある。
 夏の到来はまだかと訴える気温と、待ち遠しいのか首を伸ばすようにして長くなる昼は、確かにそう言っているように思える。蝉の声もまだだけど、擦れ違う学生の服装はもう夏服で、高校時代はもう大分昔のように思える。
 南に向いた窓とベランダから見える都会と田舎の境目、そんな都心から外れた街にある私の居場所。ここに住むようになって三ヶ月ちょっと。まだこのベランダからの風景には驚きとワクワク感を与えられる。
「琴美は本当にこの風景、好きだよな」
 世界に声が混じり、視界には大きな身体。
「うん、特に夕日がね。気持ちがすっごい落ち着く」
 ベランダの柵に乗せていた左手の薬指には指輪。誠司にも同じく指輪があって同じように夕日に当てられては綺麗に反射している。
「いい加減、慣れないのか?」
「まだ、だよ」
 首をすくめ、ため息を吐いた誠司だけど、私と並んでその風景に視界を向けていた。沈む昼間に心を囚われている訳じゃない。でも、また巡る夜から昼への暇はまだ、遠い。
 時期が時期だけに、日が沈む時間も遅くなりつつある今日この頃。秋から冬にかけての慌ただしく変わる空の焼け色よりも、この長い時間をかけて変わっていく世界を見るのが面白い。
「琴美、いい加減、飯作らないと」
 夜が完全に訪れる頃にはもう良い時間になっているだろうし、今ですらもう午後七時を回ろうかという頃になっていた。確かに、いつもの時間なら食事を作らないといけない時間だ。
「うん、わかった」
 ベランダに出た元々の理由である洗濯物を取り込み、もう一度だけ風景に視線を向けると記憶に残すように、カメラのシャッターを切るかのように、私は窓を閉めた。
 外とは違う、空気。いくらか外よりは気温が低めで湿気も少ない。手に持つ洗濯物も十分に陽の光を浴びて満足げに柔らかくなっているのだ。
「ほれ、琴美。今日は何にする?」
「前に買ってきた素麺あったよね、それにでもしようかな」
「少し、早くないか?」
「七夕を過ぎてるから大丈夫だよ」
 別に根拠は無い。誠司もそれを理解してのことか、それ以上は特に追求もなく、私に聞いてきたのだから何でも良いと言うことになるのだろうし、何より暑くなりつつある今日この頃、別に素麺でも問題ないと思うけど。
「じゃあ、他に何か作るか?」
「卵焼きとキュウリを細く切って頂戴。その間に、私は素麺の方を作るから。あ、それとショウガも少し擦って」
「了解」
 別に大きくない、私たちの部屋。八畳一間に二人の住まいは少し狭くも感じるけど、今はむしろこれが丁度良いのだ。
 テレビや机、ベッドも一つしかない部屋で、各々の私物は誠司の方が多いのは仕方のないことだ。誠司は二つ上、大学時代の先輩の部屋に私が来ているような形になるのだから。
「それにしても、昨日のお祭り、凄かったよね」
「ああ、思ったよりも人が来ていたもんな」
 七夕祭りは思っているよりも盛況で、ごった返すと言うほどではないにしても面を食らったのは確かだった。誠司と出会って四年ちょっと、その間、毎年行っていた七夕祭りは、今年ほどの盛況は無かったからこそ尚更の事だった。
「でも、花火とか空とか晴れたおかげで綺麗だったよね」
 都会、もしくは近郊では空を見上げても星は綺麗には見えない。電車で一時間も乗ればもしかしたら、綺麗に天の川が見られる場所に行けたのかも知れないけど。
 火にかけられた鍋、その中の水には気泡が生まれつつある。
「ほれ、キュウリと卵焼き。後は?」
「おー、早いねー。じゃあこれ、お願いね」
 お皿を手渡して並べて欲しい、と言う気持ちを込めた。それだけで解ってくれたのか、「オーケーだ」とだけ簡単に答えると部屋には少し小さめのテーブルの上を片付け始めた。
「琴美、これ、何処に片付ければいい?」
 かけられた声に反応すると、誠司の手には茶封筒。書類が入っているから雑には扱えないと言うことでテーブルに置いていたのだったが。
「うーん、じゃあ、一時的にベッドの方にお願い」
 一つしかないベッドに封筒を一旦逃がしておく。八畳に二人分の睡眠スペースを確保するのは難しい。物が何もなければ良いけど、二人分のものが有れば片付けるのも手間になる。その結果、一つのベッドに並んで寝ているわけなのだが。
「夏場って結構、二人で寝るのってきつくない?」
「うーん、確かに。なら、俺はソファーの方に寝ても良いぞ」
「いいよ別に。きつくないのかなって思っただけで」
 素麺を沸騰している鍋の中へ入れて蓋をする。私の家では素麺をゆでる前に二つに折って短くする。そうすれば煮え上がるまでの時間短縮や、量なども多く見えてお得だ、とお母さんから聞いたのを今では実践している。
「クーラーを少しだけかけて寝れば大丈夫だろ」
「そうだね。でも寝る前後一時間くらいが限度。料金的に」
 蓋を開けて軽くかき混ぜると、この時点で大分柔らかい。
 別に、家計自体は苦しいと言うほどではないし、その気になればもう少し豪勢に過ごせるだろうけど、二人の意見によりそれは却下された。別に何かのために、と言うわけではなく有る程度は抑制をかけておかないといけない、と言うだけ。
「そろそろ、良い感じじゃないか?」
「うーん、うん。いいみたい」
 鍋の気泡が徐々に消え、代わりに湯気が増えて一気に視界は白く煙ってしまった。

サンプル2

8月9日  [日曜日]

 本には書いていた。
 「今日は何月何日か」とか「ここはどこですか」と言うようになり、見当識が無くなり始めると。次に、鏡に向かって話しかける鏡現象、徘徊癖や最悪、自殺を試みるようになると。
 精神的には、妙に上機嫌になり、幸せそうに見える多幸症にもかかる可能性があると。
 ここまで読んで、俺はここ最近のことを思い出してみた。
 思い当たる節が存在している、当てはまる節が有る。それは、俺の気がつかない範疇で進んでおり、気がつこうと思えば、知識が少しでもあれば発見はもっと早くなっていたのだろう。
 だが、後悔は先に来ることはなく、今となっては、結果だけが見えるのがもどかしく、無力を味わうのも十二分に効果はある。
『アルツハイマー』
 その言葉は最近テレビや新聞なんかで耳にする単語だ。琴美の年齢からすれば若年性アルツハイマーとなるのだろうが。気になって本を探しに図書館まで来たのだが、そのおかげでこうして本を読んで有る程度の知識を付けることは可能になる。何かに役に立つか否かはまだ解らないのだが。
 琴美を部屋に置いてきたが、大丈夫だろうかという気持ちが無いはずが無い。ただ、連れ出して万が一はぐれたとしたら、先日のような事態に陥ったら琴美は本当に帰って来れるのだろうか。こんな心配をすることになるとは思いもしなかった。
 本へ意識を戻し、項目から治療に関するページを探し当てる。項目があると言うことは、何か対抗策があると言うことになるのだから、少しは気休めにでもなるだろう。
 そこに書かれている内容は大方予想しているし、テレビのドラマや映画でもそうするだろうと思う方法が書かれている。
 薬物投与による治療となると。そうなると副作用なんかが気になるのだがそこまではあまり深く書かれていないようだ。この本の発行自体があまり新しくはないため、今はもっと進んでいるかも知れない、そんな気休めを持つしか無い。

 昨日、一度病院に行って来た。
 別になんてことはない、単なる問診と精密検査だけであっさりと終わってきたのだが、琴美自身の気持ちを軽くしてやることは出来なかった。琴美も少しは気が楽になるかもと呟いていたのだが、効果の程は特に無しとなる。
 何が今、必要なのか、どうすればいいのかを模索するために図書館に出向いたのだが、収穫は今現在琴美に起きている状態を有る程度把握するのが限界だった。
「近々、病院からも連絡が来るだろうな…」
 病院からの連絡を待つようにと言われたが、もしかしたらこちらから病院へ行った方が良いのではないか、少しでも早く対応しなくてはならないのではないか等の焦りが、じわりと滲んでくる。
「若くても三十台からと言われているのに、琴美はまだ二十二だって言うのに…なんで」
 少ない確率に当てはまることが少しばかり許せなくて、でも何に向かって許せないのかがはっきりとしない。自分なのか琴美なのか、神様なのか運なのか。
 ひとまず言えることがある。
 今後、事情が変化し始めていくだろう、と。


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